2019/08/24.Sat
電気を使う (染付山水文長皿、三田青磁陽刻長皿)

ヨーグルトメーカーで鶏ハムなるものを作ってみた。30W・3時間。
ルーティンワークというものは最小限の労力で済むので効率がよいが、
なんとなくそうなっていることも多く、たまに暇つぶしがてら見直してみたりもする。
この度は、毎朝食べるのに買っていたヨーグルトをヨーグルトメーカーで作ることにした。
牛乳パックでそのまま作れるので、滅菌処理などの手間が要らないのが決め手である。
コストが下がると言われるが、1リットルの牛乳も200円程することもあり、
平素安いヨーグルトを買っていたので、その点はたかが知れている気がする。
でも「生乳」の「出来立て」のヨーグルトを「少ない回数の買い物」で食べられるメリットがある。
しかも、高機能ヨーグルトを元に使えば、そういう意味ではお得感がある。
ふるものは平気で買う三毛庵であるが、家電を買うときは慎重である。
愛せない家電は置きたくないのである。
だって場所を食うし(どの口が言う・(笑))、何より電気を食うやん!!
電気は代替手段がない、自分の中でやむを得ないという気になる、そういうときに使って、
電気ってありがたやーって思いたい。
冷蔵庫と洗濯機はこころから愛しているし、今日日エアコン様は命綱である。
パソコンくんとスマホちゃんにはもうちょっとエコ家電化してほしいけどね。
正直罪悪感を覚えるのはウォシュレットと浴室乾燥。。
浴室乾燥はほんと無駄遣いであるが、今の暮らしでは使わざるを得ないところで。
テレビと掃除機は関心のない分野。。(掃除は箒でお茶を濁す派。)
というわけでヨーグルトメーカーも悩んだけれど、ヨーグルトのプラごみが牛乳パックの資源ごみになり、
甘酒も作れるというお得感で採用。
専有面積もたかが知れていて、週1程度のヨーグルト製造でよいのでウチにはいいように思う。
(因みにオーブントースターはガスでトーストしたほうが美味しかったので姪に進呈し、
その場所が空いていたのでちょうど設置できた。)

鶏ハムを載せた長皿。少しくすんだ上がりの染付。

伊万里ではないのか、単に上がりが悪いのかしらんけど、通なおかずに見える、という特典が(笑)。

シマシマの縁も可愛いうえに、この山水、なんか吉野山を想ってしまうんだなー、関係ないだろうけど。
おかずを食べた後も目に美味しいお皿。

翌日も鶏ハムの続き。猛烈にナスが食べたくなり、有元葉子さんの本に出ていた蒸しナス。
ネギ・ショウガ・醤油・酢・ごま油のせが美味しかった♪
いつもね、ナスをいっぱい食べるときは焼いていたのん。
本読んで、そっか蒸せば皮も美味しくいただけるやん!って思った。
ここでもルーティンワークをひとつリセット。

この日の長皿はのんちゃんの三田青磁。
ほんとはこんなぎっしり載せず、目刺しを二匹とか載せると通っぽそうだ。
またまたキンタロー追記
先日朝キンタローに餌をあげるといつものようにがっついたのに、ペッと吐き出した。
どうやら食べ過ぎで、便秘?のようである。
そういえばやけに食べるので先日ちょっとあげすぎた気がする。
元気はあったので4日ほど絶食にして様子をみたが、そろそろ大丈夫な様子。
キンタローは体調不良の間、いつものようには寄っては来ず、目を合わせようとはしないのであった、、
分かりやすい。。(誰に似たんだ。)
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2019/08/20.Tue
写実とキンタロー追記 (伊万里染付貝藻文小皿、河骨文小皿)
先日は貝藻文の猪口だったけど、今日は貝藻文の小皿である。

えっ、どこが?などと仰らないで下され。貝藻文なのである、きっと(笑)。
のんちゃんには「栗?」と言われ、そういえば杉葉を敷いた栗に見える。。
昔の人はこれを素直に貝藻文と見て取れたのかは謎であるが、
このような感性には200年経ても共感できる三毛庵である。

実際のところ、もうこれ以上小皿が必要なはずなどないのだが、
このようなお江戸の人への尊敬の念と、売主がものをだいじに扱う様への敬意にかこつけて
ついつい連れ帰ってしまうのである。

こちらは河骨(コウホネ)の図である、たぶん。
子供っぽい描き方だけど共感できる。
(だいたい、現代は画像というものがあるせいで、ものの姿をあまりに忠実に写しすぎる。
いや、そのことが悪いのではなく、その形は自分で見て解釈して描いたものですか?
と思うようなステレオタイプの絵が多すぎることに馴染めないのだ。
形というものについての理解を画像に任せてしまって面白いのであろうか?)
実はウチにも河骨がある。キンタロー@の甕に入れているのだ。
キンタローが暑くないように、少ししか日が当たらないので
花が咲く様子はなく、水上の葉っぱが古くなって倒れるとキンタローの餌になり、
水中の葉っぱはキンタローの遊び場所になっている。
かくもありがたき河骨様であるので、三毛庵はこのお皿を見逃すはずはないのだ。
かくしてまたも小皿が殖えるのであるが、これを描いたお方は果たして河骨様にどのような心情を抱かれていたのであろうか。
追記:
キンタローはどうやらオランダ獅子頭の末裔らしい。
勝手に琉金と思い込んでいたのは、売っていた水槽に琉金らしきものがいっぱいいたせいだ。
後で見るとMixとあって、つまりは撥ねられた雑魚なのであろう。
小さいときから頭が少しふわふわしていると思っていたら、かすかに肉瘤らしくなってきた。
人懐っこいというか厚かましい性格と意外に丈夫そうなのはオランダの性質らしい。
それから愛嬌のある、尖っていないちょっとハコフグみたいな顔もオランダっぽい。

えっ、どこが?などと仰らないで下され。貝藻文なのである、きっと(笑)。
のんちゃんには「栗?」と言われ、そういえば杉葉を敷いた栗に見える。。
昔の人はこれを素直に貝藻文と見て取れたのかは謎であるが、
このような感性には200年経ても共感できる三毛庵である。

実際のところ、もうこれ以上小皿が必要なはずなどないのだが、
このようなお江戸の人への尊敬の念と、売主がものをだいじに扱う様への敬意にかこつけて
ついつい連れ帰ってしまうのである。

こちらは河骨(コウホネ)の図である、たぶん。
子供っぽい描き方だけど共感できる。
(だいたい、現代は画像というものがあるせいで、ものの姿をあまりに忠実に写しすぎる。
いや、そのことが悪いのではなく、その形は自分で見て解釈して描いたものですか?
と思うようなステレオタイプの絵が多すぎることに馴染めないのだ。
形というものについての理解を画像に任せてしまって面白いのであろうか?)
実はウチにも河骨がある。キンタロー@の甕に入れているのだ。
キンタローが暑くないように、少ししか日が当たらないので
花が咲く様子はなく、水上の葉っぱが古くなって倒れるとキンタローの餌になり、
水中の葉っぱはキンタローの遊び場所になっている。
かくもありがたき河骨様であるので、三毛庵はこのお皿を見逃すはずはないのだ。
かくしてまたも小皿が殖えるのであるが、これを描いたお方は果たして河骨様にどのような心情を抱かれていたのであろうか。
追記:
キンタローはどうやらオランダ獅子頭の末裔らしい。
勝手に琉金と思い込んでいたのは、売っていた水槽に琉金らしきものがいっぱいいたせいだ。
後で見るとMixとあって、つまりは撥ねられた雑魚なのであろう。
小さいときから頭が少しふわふわしていると思っていたら、かすかに肉瘤らしくなってきた。
人懐っこいというか厚かましい性格と意外に丈夫そうなのはオランダの性質らしい。
それから愛嬌のある、尖っていないちょっとハコフグみたいな顔もオランダっぽい。
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2019/08/17.Sat
夏休みの記憶 (染付貝藻文猪口)
送り火も過ぎ、お盆が終わった。
故郷に帰られた方も、台風で大変な思いをされなかったであろうか。
楽しい夏休みを過ごされたであろうか。

そこそこに神経質な子供であったせいか、夏に海へ行っても
姉妹やいとこたちと一緒になって波打ち際で遊ぶのはあまり好まなかった。
代わりに、ひとりで波に洗われて丸く削られたシーグラス(当時はガラス石と呼んでいた)や貝を集めた。
といっても、北の海のことであるので、あまり美しい貝はなく、
大人になって能登の海で桜貝を拾ったり、沖縄の海で色とりどりの貝を拾ったときにはかなりう喜んだものである。。
ある夏、東京から親戚の大学生のおにいさんがやってきて、いつも行く海に連れて行ってもらった。
人見知りの多いわりに、どういうわけかよくなつく相手がたまにいるというのは昔からだったのだ。
確か、その人と私と妹で行ったように思う。
その時も、おそらく私のことだからそれほど波打ち際まで行っていたとは思えないのだが、
突然大波を頭から被り、引き波に足をすくわれそうになった。
波の恐ろしさの最初の記憶、何事もなかったのに怖くて大泣きした。
(おそらく小学校には上がっていたと思うので、すぐ泣き出すような歳ではなかった筈だが。)
そんなわけで親戚の大学生はびしょぬれになって泣く子供を家まで連れ帰る、という
羽目に陥ったのであるが、近ごろふと思い出す子供のころの記憶といえば、怖い思いをした、とか
今も心の隅で後悔をしているとか、そういうことが実に多く、
幼少の、時間が止まったかのような満ち足りた記憶、というのは意識しては思い出せない。
思いがけず庭が美しいときとか、そういう意図しないときに突然押し寄せることはあっても。
この蕎麦猪口は、去年の秋に松本でみつけたものだ。
時代が若いのか、伊万里ではないのか、つるっとした磁器質だが、伸び伸びとして気に入っている。
去年は夏まで忙しくしていて、秋になって自分の暮らし周りを見直して、
ひとつ欲しいものができたので、のんちゃんに連れて行ってもらった帰りに寄ったのだ。
(その日は気圧の関係でへろへろになっていたが、松本についてようやく息を吹き返した記憶がある。。)
年に一度も行かないであろう骨董屋さんで見つけたのだが、
そこの大将は私たちのことを覚えていてくれたようで、いろんなものを見せてくれたり、
話をしてくれたりで、そんなにはゆっくりとはしていられない私たちはひやひやしたものだ。
だけど旅先の骨董屋さんでお宝探しをする楽しさというのは、どちらかといえば
みつけたものに、その時の楽しい思い出が香りのように残るというところにあって、
今でもこれを見る度に、一見では仏頂面でいる店主が人懐っこくあれこれ話してくれたあの日を思い出すのだ。
いいトシになってくると思い出というのは尽きないものである。
トシとるとどうして思い出話が増えるのかなー、ってよく思っていたけど。。
なにか美しいと思うものって、きっと人は反芻するのだろうな。
でも、過去を思うのと同じように、今もひとつひとつのこと、一瞬一瞬を大事に思う。

こんな見込・・・瀬戸か美濃の産?
さて、いつものごとくブログをさぼっているあいだ、
寝て起きて、ご飯を作って食べて、庭で水遣りをし、金魚に餌を遣る日々。
どれもそうおろそかには出来ないので、意外と忙しいのである。
猛暑の8月に入る前、7月は土日の天候が安定せず、
梅の土用干しはいつもより2週間ほど遅れた。

気を揉んだが、今年の梅は上々の仕上がりで、殆どがふわっふわの仕上がりだ。
少し硬いかな、というようなのは3粒だけ、梅自体の出来の良い年だったのだろうか。

可愛いホーローの容器にも詰めてご満悦なのであった。
故郷に帰られた方も、台風で大変な思いをされなかったであろうか。
楽しい夏休みを過ごされたであろうか。

そこそこに神経質な子供であったせいか、夏に海へ行っても
姉妹やいとこたちと一緒になって波打ち際で遊ぶのはあまり好まなかった。
代わりに、ひとりで波に洗われて丸く削られたシーグラス(当時はガラス石と呼んでいた)や貝を集めた。
といっても、北の海のことであるので、あまり美しい貝はなく、
大人になって能登の海で桜貝を拾ったり、沖縄の海で色とりどりの貝を拾ったときにはかなりう喜んだものである。。
ある夏、東京から親戚の大学生のおにいさんがやってきて、いつも行く海に連れて行ってもらった。
人見知りの多いわりに、どういうわけかよくなつく相手がたまにいるというのは昔からだったのだ。
確か、その人と私と妹で行ったように思う。
その時も、おそらく私のことだからそれほど波打ち際まで行っていたとは思えないのだが、
突然大波を頭から被り、引き波に足をすくわれそうになった。
波の恐ろしさの最初の記憶、何事もなかったのに怖くて大泣きした。
(おそらく小学校には上がっていたと思うので、すぐ泣き出すような歳ではなかった筈だが。)
そんなわけで親戚の大学生はびしょぬれになって泣く子供を家まで連れ帰る、という
羽目に陥ったのであるが、近ごろふと思い出す子供のころの記憶といえば、怖い思いをした、とか
今も心の隅で後悔をしているとか、そういうことが実に多く、
幼少の、時間が止まったかのような満ち足りた記憶、というのは意識しては思い出せない。
思いがけず庭が美しいときとか、そういう意図しないときに突然押し寄せることはあっても。
この蕎麦猪口は、去年の秋に松本でみつけたものだ。
時代が若いのか、伊万里ではないのか、つるっとした磁器質だが、伸び伸びとして気に入っている。
去年は夏まで忙しくしていて、秋になって自分の暮らし周りを見直して、
ひとつ欲しいものができたので、のんちゃんに連れて行ってもらった帰りに寄ったのだ。
(その日は気圧の関係でへろへろになっていたが、松本についてようやく息を吹き返した記憶がある。。)
年に一度も行かないであろう骨董屋さんで見つけたのだが、
そこの大将は私たちのことを覚えていてくれたようで、いろんなものを見せてくれたり、
話をしてくれたりで、そんなにはゆっくりとはしていられない私たちはひやひやしたものだ。
だけど旅先の骨董屋さんでお宝探しをする楽しさというのは、どちらかといえば
みつけたものに、その時の楽しい思い出が香りのように残るというところにあって、
今でもこれを見る度に、一見では仏頂面でいる店主が人懐っこくあれこれ話してくれたあの日を思い出すのだ。
いいトシになってくると思い出というのは尽きないものである。
トシとるとどうして思い出話が増えるのかなー、ってよく思っていたけど。。
なにか美しいと思うものって、きっと人は反芻するのだろうな。
でも、過去を思うのと同じように、今もひとつひとつのこと、一瞬一瞬を大事に思う。

こんな見込・・・瀬戸か美濃の産?
さて、いつものごとくブログをさぼっているあいだ、
寝て起きて、ご飯を作って食べて、庭で水遣りをし、金魚に餌を遣る日々。
どれもそうおろそかには出来ないので、意外と忙しいのである。
猛暑の8月に入る前、7月は土日の天候が安定せず、
梅の土用干しはいつもより2週間ほど遅れた。

気を揉んだが、今年の梅は上々の仕上がりで、殆どがふわっふわの仕上がりだ。
少し硬いかな、というようなのは3粒だけ、梅自体の出来の良い年だったのだろうか。

可愛いホーローの容器にも詰めてご満悦なのであった。
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