2011/12/16.Fri

リアルの向こう側 『礒江毅-グスタボ・イソエ』展 (阿蘭陀色絵鶏文盃)

お疲れの日々の合間を縫って、大慌てで日曜日で終わってしまう
『礒江毅-グスタボ・イソエ マドリード・リアリズムの異才』展を観に、
奈良県立美術館に行く。
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気が遠くなるほど注意深く描き込んだ数々の絵を見ていると、
真のリアリズムとはこういうことかと思う。
キャビネの中のカリフラワーは宇宙の始まりそのもののように存在し、
パンの塊りは、時の風化に晒されたかのように滅びようとする。
そして人物像は永遠の眠りにつくかのようだ。
対象を見つめ尽くしたリアリズムの向こう側に、実存とか神秘、真実といったものを
確かに予感させる。
静謐に描かれたこれらの絵を見ていると、かすかにそれに触れるような気がするのである。
画家の見た真実を、凡人である自分も見ることは叶わぬことなのかもしれないけれど、
それでも画家の才能が遠い彼方へと連れて行ってくれるような、芸術のありがたみ。
いやなことも多い人の営みだけれど、こういうものを見ると人は生きるに値する、と思う。
しかし、礒江毅は惜しまれつつすでに他界している。

礒江毅の画業に圧倒された後、うろつく鹿を横目に精進落としのように
奈良徘徊・・・
しょうこりもなく骨董屋などを覗いたりするのであるが、
何故か礒江毅からは遥か彼方、超程遠いものに目が留まるのであった。。。

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(直径4.7cm)

ありゃ、私のお気に入りのヤツ@のちびっ子バージョンではないか!
ちびっ子過ぎて盃にはいかがなものか、というのと、お土産品価格のキズもので、
お気に入りがいるんだから、いらんやろ!と自分に突っ込みを入れたのであるが、
可愛いのでやっぱり頂いてしまう、ザンネンな私なのであった。

というのもこの落書きじみた鶏の絵が、どうして私のお気に入りなのであるか、
前の盃を使いながら、最近どうも引っかかっていたからだ。
まっとうな17~18世紀辺りの阿蘭陀色絵盃などは勿論好きなもので、
写真などで見て、あぁこんなん欲しいなぁ・・・などと思ったり、
実際ある程度のものを入手するチャンスもあったのだけれど、結局手に入れていない。
何故かといえば、この時代下がりの(幕末ぐらいはあるというのであるが!?)
鶏さんで、私は十分満ち足りていたからだ。
それは何なのか、と問われれば、やっぱりこういうものを愛好するのは
日本の伝統なのであると思う。
自然と、他の生き物と共に暮らす心情が描かれているのが愉しいのである。
それは例えば、俳句や南画などと同じ境地で遊んでいるような心持ちである。
礒江毅のリアリズムからは程遠いようでいて、同じある真実を、
全く別の角度から見ているかように感じるのは、ヒトの想像力の成せる業なのか、
単なる思い込みのハゲシさなのか、、、まぁそれは個人の勝手だろう。
うんちくはやはりつまらないなと思ったけれど、遊んでもらえるこのチビの鶏さんたち、
なんとか直してやりたいと思う親バカなのであった。
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