2014/02/03.Mon

「白洲正子 ひたすら確かなものが見たい」を読む (グラヴュールリキュール杯)

軽いお湿りの後、か細い月がぼんやりと温む節分の夜。
お水取りまではまだまだ寒が戻るだろうけれど、それにしても暖かい。
こうなると、心此処に在らず・・・っていうふうになってくるんだよなぁ。。
風流ではなく、寒暖の差にいつも気分変調をきたす三毛庵である。
そういうとき、「あぁ、一寸ものを買うのを控えよか」などという
一般ジョーシキとやらが頭をもたげ、しゅんとなるのである。

だけどもね、どういうわけかそんなときほどものがついてまわるのです。
まるで「そういう邪念は払って、ちゃんとものを見なさい」と言うように。
(・・・なんて書くと、あほちゃうかと言われるだろうけど。)
本心を欺こうとする自分をもののほうが見透かしているのかな。。

週末に、挾本佳代さんの「白洲正子 ひたすら確かなものが見たい」を読む。
私自身は読みっぱなしな人なので、読んだものを体系立てて解釈するのは
あまり得意ではない・・・なので、白洲正子の著作をきちんと理解している人が
整理・解釈したものを読めるのは嬉しい。
この本が言わんとしていることをここで今更言う気はないのだけれど、
ああそうか、と私自身腑に落ちたことをふたつ拾い読み。
(この本の論旨という訳ではありませぬので念のため)

・・・「若いものは老いる。新しいものは古くなる。形あるものは滅びる」
(「骨董との付き合い」411頁)。
この自然の掟にしたがい、「もののあはれ」の思想が日常生活の中から
生まれてきたと、白洲正子はいう。まさに骨董は、この「もののあはれ」が
写し出されたものである。・・・

・・・白洲と河合隼雄との対談では、物と心と型について、つぎのような
やりとりがある。
河合
「日本人は、物と心を分けていないんです、日本の伝統では。
例えば、もったいないっていうのは、物を大切にしているだけじゃなく、
心を大切にしているわけです。ごはん一粒でも大事ですよ、という言い方で
心のことを教える。それから日本の伝統的な、それこそ作法なんか考えたら
分かると思いますが、型から整えていったりしますよね。
型が整えば心がついてくるっていう、これは日本の考え方なんです。・・・

私はどうしてこうも、次々とふるいものを手にせずにはいられないのかと
怖くなったものだけれど、それはこころがものに支配されることへの恐怖だった。
だけど、そう言われて気づくのは、実際は「もの」という型を通じて
もっと心のことを知りたいと願っているのではないかということだ。
抽象概念などで何かを分かることは私には難しくて、
ものという手掛かりが必要なのだということだ。
(物と心を分けて考えて、心の心配をするなんて全く無意味なことだった。。)

そうして、私よりもずっと永らえてきて、これからも永らえるであろう
ふるいものたちさえも不変ということはなく、実は儚いのだということ、
まるで季節の移り変わりのように、移ろう「もの」と「自分」のあいだを
確かめているのだということをようやく思った。
やっぱり、ものの言うとおり、自分を欺いてはいけない。

・・・タワゴトだけでは申し訳ないのでぷちっと画像をば。。
明日からはまた冬らしいけれど、今宵はほわんと暖かいので硝子など。

20140126 025

下右は前から持っている和ガラスなのだけれど、これは和ガラスなのか
ちょっと分からず・・・

20140126 024
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ものたち | Comments(2)
Comment
No title
物と心はつながっているとtowaも思います(^^)
心が荒んでいると、家の物たちも荒れている気がします。
心が何かを求めているときは、むやみに買い物に出かけて
一生懸命その物を探したりしています。
不思議ですね。
断捨離の本を以前読んだ時にも、類似したことが書いてあり、
ああ、やっぱりそうなのかと妙に納得しました。
きっと色んな心が物に投影されるのかもしれませんね。
towaさんへ
私もいつも、どうして物が自分の心に響くのか不思議です。
でも、ふるいものと対話するのは楽しいです。
なので、それ以外の物は代わりに買わないようにしています(笑)
自分が求めているもの・ことを大事にしようと思うのです。


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